大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

横浜地方裁判所 昭和57年(タ)110号 判決 1984年7月30日

原告

甲野花子

右訴訟代理人

安木健

被告

甲野太郎

右訴訟代理人

淡谷まり子

主文

原告と被告を離婚する。

訴訟費用は被告の負担とする。

事実

第一  当事者の求める裁判

一  原告(請求の趣旨)

主文と同旨

二  被告

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

第二  当事者の主張

一  原告(請求原因)

1  原告は昭和二六年二月二〇日大阪府下に生まれ、○○○女子大学英米文学科を卒業後、○○○○産業株式会社中央研究所に勤務していた。被告は昭和二二年二月一三日滋賀県下に生まれ、○○大学経済学部を卒業し、○○○○株式会社に入社して現在に至つている(現在は同社営業本部自動車××市販部東京市販課の係長の職にある)。

原・被告は知人の紹介により見合し、昭和五一年一一月三日結婚式をあげ、翌四日婚姻届を出した。二人の間に子供はない。

2  原・被告間には以下のように婚姻を継続し難い重大な事由がある。

(一) 原告は快活な性格であるのに対し、被告は無口で感情をおもてにあらわさない性格で、双方は対照的である。見合い結婚であるから結婚当初はやむをえないとしても、結婚後時日が経過してもなお、原・被告の間には対話がなく、気持の通いあうところがまるで生まれてこなかつた。従つて、原告からすれば他人と同居しているのとさして変りないような毎日であつた。原告は、大阪府○○市の実家から誰れも知り合いのいない藤沢市の被告のもとに嫁いできたところから、身近にこのような気持を打明けることのできる相手もおらず、被告との同居も気づまりな感じがつのるだけであつた。

原告はこれを自分で解決しようと、昭和五二年春頃から就職先を捜したり(適当な職場がみつからず、結局就職できなかつた)、朝日カルチャーセンターに通つたりして家庭の外でこれを紛らそうとした。このような原告の状態に対し、被告は何らの関心を示そうとせず、そのため原告の被告に対する感情はますます離れていくばかりであつた。

(二) 原告は昭和五二年春頃から一種の軽いノイローゼ状態となり、被告とともに暮らすのが耐えられなくなると、実家に帰り、三、四日ほど滞在して気をとりなおしては被告のもとに帰つてくるという生活をくり返していた。これに対し、被告は原告が実家に帰つても連絡をしてくることもなく、原告が自分のところに帰つてきても原告を非難することもないかわりに、原告にその気持を問い質そうともせず、原告からすればまるで無関心としかとりようがなかつた。

(三) このように、原・被告は夫婦とは名ばかりで、気持の通じない男女が同居しているというにすぎない状態であつた(なお、昭和五二年二月頃からは夫婦のいとなみもまつたくない)。

原告はこのような生活に耐えられず、被告の顔を見るのもいやという状態となつて、ついに昭和五二年一〇月一六日両親と相談のうえ実家に帰り、以後被告と別居している。

原告はその後大阪市内の○○百貨店の外商部につとめ、高等学校の教員をしている父親および母親とともに肩書地で暮らしている。被告は五月のゴールデンウィークと八月の盆の頃滋賀県○○○町に帰郷する際、年中行事のように原告宅を訪れるが、原告は被告と顔を合わせることを極度に嫌つてこれを避けており、やむなく会つても双方の間には殆んど会話らしいものはない。被告は生活費として、別居直後五万円送つてきたことがあるが、原告はこれを返しており、以後原告は被告に対し生活費の送付を求めたこともなく、また被告がこれを送付してきたこともない。

(四) 以上のように、原・被告は約一一か月同居したが、その間夫婦らしい生活の実体がなく、別居後今日に至るまで六年八か月を経過して婚姻生活は完全に破綻している。原告は再び被告とともに暮らす気持をまつたく持つておらず、また客観的にも、約一一か月の同居中でさえも気持の交流がなかつたものを、別居後右年月が経過した現在これを期待するのは無理である。

(五) なお、原告は昭和五三年一月被告を相手方として大阪家庭裁判所に離婚を求める調停を申立てたが、被告からの管轄違の申立により取下げざるを得なかつた。同年八月原告は横浜家庭裁判所に改めて調停申立をしたが、被告は絶対に離婚しないという態度を終始変えないため、まつたく調停は進行せず、原告はやむなく翌五四年三月申立を取下げた。

(六) そこで原告は被告との離婚を求める。

二  請求原因事実の認容

1は認める。2・(一)のうち、原告が就職先を捜したり、朝日カルチャーセンターに通つたりしたことがあることは認め、その余は争う。(二)のうち、前段は認め、後段「これに対し」以下は否認する。(三)のうち、原告が昭和五二年一〇月一六日以降被告と別居していること、その後○○百貨店に勤めたこと、被告が送つた生活費を原告が返したことがあつたことは認め、その余は否認する。(四)は争う。(五)は認める。

三  被告の主張

1  結婚生活の実情と別居後の状況

(一) 原告と被告とは神奈川県藤沢市にある被告の勤務先会社の社宅で新婚生活を始めた。ふたりは当分の間は子供をつくらない予定であつたので、結婚当初、平日の過し方について話し合つたことがある。その際の原告の希望により、被告は媒酌人の○○夫人に適当な華道の先生の紹介を依頼した。同夫人は二人ほどの先生を紹介してくれ、原告は近くに住む先生を選んで訪ねたが、年令が若過ぎるから断りたいと言い、被告が再び○○夫人に断りを入れたことがある。

昭和五二年二月頃から原告は、朝日カルチャーセンターに通うようになつたが、この頃から原告は結婚生活が面白くないと言い出し、被告との性生活も拒否するようになつた。また原告は、結婚以来しばしば実家に帰り、二、三日滞在してくることがあつたが、この頃から里帰りが頻繁になり、泊つてくる日数も多くなるようになつた。

(二) 被告は、原告が毎日の生活がつまらないと言うのに心を痛め、原告に対し結婚生活には双方の努力と理解が必要であると話す一方、休日には、テニス、映画等に誘つたりしたが、原告はこれにも応じなかつた。

同年四月頃、被告の会社の藤沢工場で事務員が急に退社したため、被告は原告の気晴らしになると思い、原告にアルバイトで勤務する話を伝えたが、そんな仕事はいやだと言つて断られてしまつた。

この頃被告は再び原告に性交渉を求めたが、原告はこれを拒絶し、離婚したいと口にするようになつた。そして被告とはあまり話もせず、実家にしきりに手紙を書いていた。

同年七月頃、心配した原告の母と叔父が様子を見に来たが、被告は二人でよく話し合つて、状況を改善していくと話し、叔父らの賛同も得た。

同年八月、原告と被告が夏休みに原告の実家を訪問した際、被告は、原告の父から二人の関係についてたずねられ、性については多少強引に振舞つた方がよいという趣旨のアドバイスを受けた。帰京後被告は、原告に対し従来より積極的に接触を求めてみたが、原告はやはりかたくなな態度を崩そうとはしなかつた。

(三) 被告は原告が慣れぬ土地に一人で来て、若干ノイローゼ気味なのであろうと推察し、こうした状況の中でも原告の実家と連絡を取り合つたりして、二人の関係の改善に心をくだいていたが、同年夏頃から原告の態度は一段と閉鎖的になり、口もほとんどきかず、休日の昼食も自分の分しか作らなくなつた。そして同年一〇月、被告が京都に出張した際、原告は無断で実家に帰つてしまつたのである。被告は予想外の事態に動転し、とにかく話し合いをしたいと言つたが、原告は全くこれを受け付けなかつた。

(四) 被告はその後しばらくの間毎週末ごとに原告の実家をたずね、話し合いをしようとしたが、原告は被告と会おうとせず、両親を通じて「別れたい」といい張り、原告の両親も「娘はいない」とか「来ないでくれ」等というのみで、関係回復のための努力をしなかつた。そのため被告は、谷利夫妻や紹介者の小西夫人、被告の実家の人等を間に立てて、原告の翻意をうながす努力を重ねたが、誰もがみな原告の頑なさにさじを投げてしまい、話し合いの道は断たれてしまつた。

(五) 昭和五三年一一月、原告は被告の留守中に突然被告方にあつた荷物を引揚げてしまつた。横浜家裁で話し合いを始めようとする矢先のできごとであつた。調停においても原告の態度は変らず、具体的な問題点を指摘することもなく、ただ別れたいと言うのみであつたので、建設的な方向を見出そうとする被告とは、結局一致点を見出せず、二回目で調停は不調に終つた。

(六) 調停不調後も被告は、五月の連休とお盆の休みには原告の実家を訪問して、原告との交流を試みていたが、実家には居ないと言われ、ほとんど会うことはできなかつた。その後被告は原告に手紙を書き、何か不満の点があれば、具体的に言つてくれれば話し合つて解決できるのではないか、と申し入れたこともあつたが、原告からの返事は「自分が被告を嫌いなのは理屈ではない。単に嫌だから嫌なのだ」という趣旨のもので、二人の結婚生活について、まじめに話し合おうという意思は全く感じられず、そのまま今日にまで至つたのである。

2  婚姻破綻の有無について

(一) 被告は温厚かつ誠実な人柄で、多弁ではないが、特に無口であつたり陰気であつたりするわけではなく、会社その他における人間関係も、至極円満である。

昭和五一年一一月に結婚した当初は、休日は挨拶廻り等であわただしい生活であつたが、ふだんの日は、被告は朝七時すぎに家を出て夜七時半か八時頃に帰宅しており、時どき麻雀やつき合い等で遅くなる日のほかは、毎晩夕食も原告と共にし、これからの生活等について話し合つたりしていたのである。これに対し原告は、翌五二年二月頃から前記1・(一)ないし(三)のような態度をとりつづけたのであるが、このような経緯からみれば、原告と被告の結婚生活は、破綻しているというよりはむしろまだ軌道にのつていないとみるのが妥当で、両者の喰い違いは、十分な話し合いや意思疎通の時間がないことに起因していると思われる。

見合で結婚した夫婦が十分気持を通い合わせられる状態になるまでには、一年や二年を要するのは当然であり、しかも双方の努力と忍耐がなければならない。原告のように結婚三か月足らずで、「気持が通じない」とか「同居が気づまりである」と言い立てて実家に帰つたのでは、そもそも婚姻共同生活を築き上げるいとまがないと言わざるを得ない。被告は原告のこのような非協力的な態度に対しても、理解ある態度で接し、一貫して原告との結婚生活の継続を希望しているのであるから、原告さえ婚姻生活の維持と建設に協力する姿勢を取るならば、結婚生活は十分にうまく営める可能性がある。

(二) 仮に長期間の別居によつて原告と被告の婚姻が破綻しているとしても、その原因はほとんど原告にあり、破綻を回復し難い程度にまで至らせたのも、ただひたすら離婚を主張して話し合いを拒絶してきた原告の態度にあるから、原告が離婚を請求するのは、許されない。原告は、結婚してから度々里帰りをくり返し、結婚後三か月ほどで性生活も拒絶するようになり、一方的に実家に帰つて別居を開始し、それ以後は原告と会うのさえ避けているのであつて、本件婚姻が破綻状態に立ち至つたのは、専ら原告の責に帰すべき事由によるというべきである。

第三  証拠<省略>

理由

一<証拠>によれば、原告と被告は昭和五一年一一月三日結婚式を挙げ、翌四日婚姻届を出した夫婦であることが認められる。

二次に、<証拠>によれば、原・被告は結婚後神奈川県藤沢市で新婚生活を始めたが、昭和五二年一月頃から不和を生じ、同年二月頃からは原告が性交渉を拒否するようになり、同年一〇月一六日被告不在の間に原告が家を出て大阪府○○市の実家へ身を寄せ、爾来、別居を継続していること、原告は昭和五三年八月横浜家庭裁判所に対し離婚の調停を申立てたが、被告が離婚に同意しなかつたので、翌五四年三月右申立を取下げ、昭和五七年六月二一日本訴を提起したこと、被告は今でも婚姻生活への原告の復帰を求めているが、原告はこれを固く拒否しており、この態度は別居以来かわつていないことが認められる。

右事実によれば、原・被告の婚姻関係は、六年数か月にわたる別居、原告の強い離婚意思により、既にその実体を失い、破綻して回復し難い状況にあるとみるべきである。

三ところで、被告は、右破綻は、原告の性交渉の拒否、家出、話し合いの拒否などもつぱら原告の責に帰すべき事由によるから、原告からの離婚請求は許されないと主張するので検討する。

1  <証拠>によれば、次の事実を認めることができる。

原告は昭和二六年二月二〇日生れ(当三三年)で、○○○女子大学英米文学科を卒業後○○○○産業株式会社中央研究所に勤務していた。被告は昭和二二年二月一三日生れ(当三七年)で、○○大学経済学部を卒業し、○○○○株式会社に入社し現在に至つている。

原・被告は被告の親戚の紹介で昭和五一年五月見合し、その後三、四回会つた後前記のとおり同年一一月三日挙式した。その頃は原告も被告に対して格別違和感をもたず、また、夫婦の愛情というものは共に生活していく中で育つものだと他人から言われ、原告も了解して被告と結婚する気になつた。

結婚後二人はハワイへ新婚旅行に行き、帰国後神奈川県藤沢市にある被告の勤務先会社の社宅で新婚生活を始めた。当初の一、二か月は媒酌人や双方の実家への挨拶、新居の整理、親族、友人の来訪などで休日も忙しい生活が続いた。

この時期が過ぎ、いわば二人だけの新生活が始まつた昭和五二年一月頃から原告は被告との結婚生活に失望を感じ始めた。

原告は結婚前、職場の労働組合の婦人部役員を勤めたこともあり、明朗で快活な性格であるが、藤沢市には知人が居ないので、被告が会社に出勤したあとは話相手もなく無聊をもて余し、被告が帰宅しても、同人は口が重く、余り感情をおもてにあらわさない性格なので、会話がはずまず、楽しめなかつた。話をしても、原告としては、被告がいつも尊大な態度をとり、原告を被告の従属物視しているように思われた。原告は被告と共感し合うところがなく、一緒にいることにむしろ気づまりを感じるようになつた。このことを被告に洩らしても被告は真剣に受けとめてはいないようであつた。原告は、被告が原告に対して、結婚生活には双方の理解とそのための努力が必要であると説きながら、自分の生活習慣を守り、その信条を一方的に原告に押しつけるばかりで、互いに交流することには関心を払わず、例えば、原告が前記のような生活状況の中で抱いている鬱々とした気持への思いやりがないようにみえて不満を蓄積していつた。原告は次第に被告が疎ましくなり、前記のように、同年二月頃から被告との性交渉を拒否し、被告のため朝食を準備することも怠り勝ちで、被告が出勤していくまで起床しないという態度をとり、また、一度、休日に被告からドライブに誘われたことがあつたが、気乗りがしないとして応じなかつた。

同年四月頃原告は実家の両親へ被告と気持が合わず、和合できない心境を書き送り、被告に対しては離婚を口にするようになつた。被告からその理由をきかれたが、どうせわかつてくれないと思つて十分な返事をしなかつた。

原告は適当な職場があれば外で働きたいと思つたが、みつからなかつた。被告から、その勤務先会社の事務のアルバイトの口があるという話を聞かされたが、気の進まない話であつたので、断つたことがある。

被告は媒酌人の夫人に原告のため華道の教師の紹介を依頼し、後にこれを断つたが、原告はこの事実を知らないという

被告としては、結婚後当分は子供はつくらず、外で仕事をしたり、もつと学習したいなどという原告の希望をできるだけ尊重してきたし、相互の理解を深めるための対話に努めてきたつもりであつたので、原告の心境の変化が理解できず、その理由を質しても納得のいく回答を得られなかつたという不満を持つている。

昭和五二年七月原告の母とその叔父が心配して藤沢市に原・被告を訪ね、互いに歩み寄りの努力をするよう諭した。同年八月のお盆休みに原・被告が原告の実家を訪ねたとき、原告の父も同様の説得をした。

しかし、双方の考え方や生活態度は相変らず並行線のままであり、話をすれば口論となるので、互いに口をきかない状態となつて夫婦の仲は悪化の一途を辿り、原告は被告のための毎日の朝食や休日の昼食の準備も全然しなくなつた。原告は離婚の意思を固めて行き、同年八月二二日両親に宛て、離婚の了承方を懇請する手紙を書き、同年一〇月七日には母に宛て、被告と同居する現状にもはや耐えられない心境を訴える速達便を出した。原告の両親は原告の精神状態の深刻さを心配して、とりあえず原告が実家へ身を寄せることを了承した。

原告は同年一〇月一六日被告が会社の用務で関西へ出張した留守に家を出て実家へ赴き、爾来藤沢へ帰らず、別居を継続している。

別居直後の頃、被告は一週間おきに二回程原告の実家を訪ねて原告の帰宅を求めたが、離婚したいとして拒否された。理由をきいたが返答を得られなかつた。

同年一〇月、被告は原告に宛て当座の生活費として金五万円を送付したが、返送された。

被告は、原・被告の紹介者、媒酌人、原告の大学時代の恩師等に事情を話し、原告の復帰を説得してもらつたが、原告の離婚意思が固く、効果がなかつた。

同年一二月、被告とその兄、原告とその母らが話し合つたが、離婚を求める原告と復帰を求める被告が対立して譲らず、物別れになつた。

昭和五三年一月原告は大阪家庭裁判所に対して離婚の調停を申立てたが、被告から管轄違いの申立がなされたので、一旦取下げ、前記のとおり同年八月横浜家庭裁判所に改めて申立てたが、右の対立が解けず、翌五四年三月これを取下げた。

なお、その間原告は昭和五三年三月から大阪市内の百貨店にパートタイマーとして働くようになつた。

調停不調後、被告は毎年きまつたように五月と八月の二回原告の実家を訪れ、あくまで原告の復帰を求めた。原告は被告と会うのを極度に嫌い、代わりに原告の母が応待することもあつたが、原告の感情を顧慮しない無神経で執拗な来訪とその都度原告には妻として被告と同居する義務があるとする被告の公式論の反復に、原告はいつも憂鬱な気分になり、被告に対する嫌悪感を益々強めていつたという。

原告の母が被告に原告の勤務先を教えなかつたところ、被告は興信所に調査を依頼してこれをつきとめ、会いに行つたこともあつた。

原告は昭和五七年六月二一日本訴を提起したが、その後間もなく被告が原告の実家を訪れ、制止をきかず、強引に座敷に上り込んだので、ただならぬ気配を感じた家人が緊急電話でパトカーの派遣を求めたことがあつた。

被告は、今なお原告を愛しているといい、原告が婚姻共同生活における妻としての責務を自覚し、被告を理解すれば、婚姻関係の維持はなお可能であるとして、あくまで離婚を肯んぜず、一日も早い原告の復帰を求めている。

別居後、原告は、被告から、原告への愛情を披瀝し、被告の許への復帰を希求する文面の手紙を受取つたが、むしろ腹立たしく思つてこれを返送すると共に、返事として、原告は被告がきらいであり、その姿をみるのもうとましく思う、などと書き送つたことがあり、原告としては、被告の右言辞は意地を張つているとしか理解のしようがないものとしている。

2  以上認定の事実によれば、右事実中の原告の勝気でやや自己中心的ともみえる行動が婚姻関係を破綻に導いた一因であることは否定できない。しかしながら、これを一方的に原告のわがまま気まぐれによるものともいえない。原・被告の婚姻生活は昭和五二年一月頃までは格別の問題もなく推移していたのが、同年二月頃から不自然な状態になつたのであり、これについては各人の行動にとりたてて非難されるべきものが原因としてあつたわけではなく、つまるところ原・被告間の精神的不協和がその重要な原因をなしているものと認められるのである。前記認定の事実によれば、それは、原告の被告に対する絶望感ないし愛情喪失にあること、更にその由来するところは、夫婦ないし結婚生活に対する双方の考え方の懸隔(性格の不適合)ともいうべきものであり、これを克服して感情の交流をはかり得る相互理解がついに得られなかつたこと、原告の活発な気性に対して、被告のそれは真面目ではあるが、やや柔軟さを欠き、感受性の強い原告に対して度量のある対応をとり得なかつたこと、被告指摘の原告の前記各行動は被告に対する加害的意思に基づくものではなく、むしろ被告に対する前記感情に根ざした逃避的意思に基づくものであつたことが認められるのである。

被告は、被告が原告に対して同居中及び別居後も相互理解のための対話の申出をしたのに対し、原告は一切これに応ぜず、解決のための何らの努力をしなかつたと原告を非難する。

いうまでもなく、夫婦は多くの場合、性格や意見を異にするのであるから、円満な結婚生活を営むため、協力して、その相違や対立を克服するよう努力すべき義務がある。その方法として、夫婦の対話が重要であるが、それは真に相手方を理解しようとする姿勢に基づくものでなければならない。しかるに、前記事実によれば、原告が前記各行動をとつたのは、被告とは対話をしても理解し合えないことの絶望感によるものであることが認められるところ、被告が原告のかかる心情を真に理解しようとして適切な対応をとつた形跡は見当らない。むしろ、原告本人尋問の結果によれば、同居中、被告はいつも一方的にその考えを押しつけるばかりであつたといい、また、前記認定の事実によれば、別居後原・被告及び双方の親族を含む話し合い及び家事調停の席上でも双方の主張は対立して並行線を辿つたのであつて、被告においても原告の話に耳を傾けようとする姿勢はみられず、いずれにせよ対話による関係修復の可能性はなかつたのであるから、原告の態度のみを非難するのは当らない。

このようにみてくると、婚姻破綻の責任がもつぱら或いは主として原告にあるとするのは相当でなく、原告をして被告指摘の行動をとらせるに至つた被告の生活観ないし生活態度(これに関する原告の認識内容はやや抽象的な表現に止まつたが、別居後の被告の前記行動に照らして首肯し得ないものではない)もその重要な要因として考慮しなければならない。

従つて原告が有責配偶者であるとする被告の主張は失当であつて、これを採用することができない。

四そうすると、民法第七七〇条第一項第五号により、原告の本件離婚の請求は理由があるから、これを認容すべきであり、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条を適用して主文のとおり判決する。 (佐藤安弘)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例